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許すまじ 大手葬儀社と僧侶の契約
先日知人の葬儀関係者からこんな話を聞きました。。大手葬儀社は宗派毎に専属僧侶を抱えているが、その内情です![[演劇]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/63.gif)
①僧侶ははじめに葬儀社に百万円単位で契約金を納める。(契約解除時に返金されない)
②葬儀社から葬儀の依頼がバンバン入る。
③僧侶は通夜葬儀をこなして施主様からのお布施30%を葬儀社に納める。
④僧侶は今後のことは近所でお寺を探してくれと言う。(葬儀社からの依頼を三回断ると無条件で契約解除になってしまうので、極力、法事や満中陰法要など細かい予定に入れないようにする)
こんな無責任な話ってありますか。とんでもないですよ![[パンチ]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/153.gif)
係わり合った施主様やご家族の心の支えとなり、信頼関係を築き上げて信仰に導いていくのが僧侶の努めでしょう。それを放棄して葬儀社の意のままに葬儀に奔走する僧侶。
施主様は寺院や僧侶への不信が募る。拙寺にも何件かいらっしゃいましたが「葬儀の寺に突き放された」と憤慨していました![[失恋]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/138.gif)
その知人は最後に「この地域は圧倒的に真宗系契約が多いです。しかし、貧乏だった寺は見違えるように裕福になります」と言っていました![[ぴかぴか(新しい)]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/150.gif)
財は力をなしますし、拙寺でも財力があれば多様なことにチャレンジできると感じることもあります。バリアフリーにしたい。景観をよくしたい。本堂の椅子を増やしたい。庭の剪定をしたい。シロアリにやられた土台を修復したい等々。存続自体危ぶまれている寺院も多い。背に腹は代えられないのかもしれません。
しかし、僧侶としての規範律に叶っているか。ここが重要なのです。かねてより葬儀や悪徳葬儀社の問題は当ブログでも書いてきましたが、これは仏教界全体で問題提起すべき内容です。
葬儀屋互助会制度のトリックに注意して契約を(改訂)
http://honyouji.blog.so-net.ne.jp/2011-02-26
高槻広宣寺様が悪徳葬儀社に対してに興味深いブログを発信されています
http://www.kousennji.jp/blog/
①僧侶ははじめに葬儀社に百万円単位で契約金を納める。(契約解除時に返金されない)
②葬儀社から葬儀の依頼がバンバン入る。
③僧侶は通夜葬儀をこなして施主様からのお布施30%を葬儀社に納める。
④僧侶は今後のことは近所でお寺を探してくれと言う。(葬儀社からの依頼を三回断ると無条件で契約解除になってしまうので、極力、法事や満中陰法要など細かい予定に入れないようにする)
こんな無責任な話ってありますか。とんでもないですよ
係わり合った施主様やご家族の心の支えとなり、信頼関係を築き上げて信仰に導いていくのが僧侶の努めでしょう。それを放棄して葬儀社の意のままに葬儀に奔走する僧侶。
施主様は寺院や僧侶への不信が募る。拙寺にも何件かいらっしゃいましたが「葬儀の寺に突き放された」と憤慨していました
その知人は最後に「この地域は圧倒的に真宗系契約が多いです。しかし、貧乏だった寺は見違えるように裕福になります」と言っていました
財は力をなしますし、拙寺でも財力があれば多様なことにチャレンジできると感じることもあります。バリアフリーにしたい。景観をよくしたい。本堂の椅子を増やしたい。庭の剪定をしたい。シロアリにやられた土台を修復したい等々。存続自体危ぶまれている寺院も多い。背に腹は代えられないのかもしれません。
しかし、僧侶としての規範律に叶っているか。ここが重要なのです。かねてより葬儀や悪徳葬儀社の問題は当ブログでも書いてきましたが、これは仏教界全体で問題提起すべき内容です。
葬儀屋互助会制度のトリックに注意して契約を(改訂)
http://honyouji.blog.so-net.ne.jp/2011-02-26
高槻広宣寺様が悪徳葬儀社に対してに興味深いブログを発信されています
http://www.kousennji.jp/blog/
回天搭乗員 塚本太郎大尉の遺言
以下の遺言は人間魚雷回天で散華した塚本太郎様が出撃前にお父様の経営するスタジオで密かに録音していた肉声を活字におこしたものです。
この録音は靖国神社遊就館と呉大和ミュージアムで拝聴することが出来ます。
過去を現在のものさしで測り、批判することは容易ですが、あまりにも短絡的に感じます。。その時代その時代を懸命に生き抜いた人達の息吹を感じ、その心中を酌み取ることこそ最も大切だと思います。
過去を徹底的に卑下否定して今を生きるのが良いのであれば、我々が懸命に生きているこの時代や人々の営みや育みのことも、将来子孫に葬り去られるかもしれない。あの価値観やあの時代は醜いと言って。
私は決して葬り去ることはしない。先人の徳を永遠に語り続けたい。
父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんなわがままなものを、よくもまあ本当にありがとう。 僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。 春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。 夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。 秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。 雪が降りだすとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。 昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって――。 然し僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人、日本人、自分の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。 そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃襄せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。 年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃刃を閃めかして進め。日章旗を翻して前進せよ。 至尊の御命令である。日本人の気概だ。永遠に栄あれ祖国日本。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。 みんなさようなら!元気で征きます。
この録音は靖国神社遊就館と呉大和ミュージアムで拝聴することが出来ます。
過去を現在のものさしで測り、批判することは容易ですが、あまりにも短絡的に感じます。。その時代その時代を懸命に生き抜いた人達の息吹を感じ、その心中を酌み取ることこそ最も大切だと思います。
過去を徹底的に卑下否定して今を生きるのが良いのであれば、我々が懸命に生きているこの時代や人々の営みや育みのことも、将来子孫に葬り去られるかもしれない。あの価値観やあの時代は醜いと言って。
私は決して葬り去ることはしない。先人の徳を永遠に語り続けたい。
父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんなわがままなものを、よくもまあ本当にありがとう。 僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。 春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。 夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。 秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。 雪が降りだすとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。 昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって――。 然し僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人、日本人、自分の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。 そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃襄せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。 年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃刃を閃めかして進め。日章旗を翻して前進せよ。 至尊の御命令である。日本人の気概だ。永遠に栄あれ祖国日本。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。 みんなさようなら!元気で征きます。
法事後の清宴にて~ある学会員とのやりとり~
拙僧は法事後の清宴に招かれることも多く、施主様始めそのご家族や親戚との交流を大切にしている。法事では皆が功徳を積むとはいっても、法話・法要と、こちらからの一方的なアプローチになりがちだが、その後の宴会では相互が分かち合いながら時間を共有できる。ましてや若い方との接点が少ない中にあって、そのような機会を見逃すわけにも行かない。実際、その積み重ねによって菩薩団に加入してくださった方もあるので、俄然やる気が出る。
![[ビール]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/53.gif)
もっとも、宴会が大好きなのが一番の理由なのだが。![[わーい(嬉しい顔)]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/140.gif)
先日、清宴でとある参列者が
「浄土宗は南無阿弥陀仏と唱える。あの世へ生きたい。救ってくれ。そうすると死にたくなる。鬱病になる。だから法華経を修行しないといけない。しかし、身延の修行は狐や蛇を祀っているので畜生になる。本当に仏界を理解している教団は創価学会」だと。
拙寺地域は浄土信仰が盛んな土地なのだ。
この方は法事の度に折伏と称して周りの方を悩ませるのだが、結構人間味があって拙僧のことも可愛がってくださる。数年来の付き合いになるが宴が進むにつれて拙僧と必ず議論になる。
拙僧
「学会は草創期より相互依存で活動してきた大石寺教義も払拭できず、中途半端。しかも過去の教義清算や活動への自己批判も一際しないで、新教義を布教するのはあまりにも無責任。
ここにいる村の浄土宗信徒は仏教のことなど何も知らない。学んだこともない。興味もない。ただ慣習にならって法事に参列しているだけ。貴方だって入信前はそうだったはず。
しかし、ここの人達が貴方の意見に同調してあなたと同じアナウンスを始めたら、正邪の確証もなく人を引き込むことになる。このことに問題意識や宗教的な懐疑心を抱かないと、世間からカルトと言われても仕方ない。
拙僧は日蓮聖人の教義であっても懐疑心も持つし、教団の高僧の発したことでも疑問を主張できます。そういった教団です。でも新宗教はたいていそのような心を抱くこと自体タブー。成功すれば御利益。失敗すれば信仰が足らないと言う。批判的なことを主張すれば堕地獄となる。これでは思考停止ですよ。
貴方は法事の度に日蓮宗の法要に参列しています。邪教僧侶との同座は地獄行きじゃなかったのですか?貴方は本当の本尊は板ではなく心の中にあると言うが、貴方の大先輩方は大石寺の板本尊のみが絶対と称していました。教義改革は方便として必要というなら、狐や蛇だって肯定できますよね。諸天の別勧請は法華経への引入方便なのですから。
身延が狐や蛇を祀っているというのも貴方達は何十年来主張していますが、釈尊を礼拝しているのです。法華経を信仰しているのです。狐や蛇は諸天の眷属であって、本尊にしていません。そこも間違っています。悪口をそのまま意味も分からず発している人が多すぎます。
わたしは貴方にとても愛着を抱いていますし、毎回お会いするのが楽しみ。万が一貴方が先立つようなことがあったら葬儀には絶対に出席します。たとえ学会の友人葬であっても。友情を教団に指図される覚えはないのですから」
昨年は大震災で多くの命が失われた。熱心な信仰を持つものもあったと思う。この期に及んで布教と称し、そのような無責任なことを発する教団は看過できない。
ある高僧が
「世間では天罰や業・因縁といった言葉を悪しき趣旨で発言する人がいる。しかし、そのような言葉は絶対他者に投げかけるべきではない。自己に自問自答するべき言葉であり問題である」
と説法されたことも伝えた。
最後はその方と再会を誓って握手をして別れた。有意義な清宴であった。
以前ブログに記した内容が埋もれてしまったので再掲します
拙僧ブログ「幸不幸を他者に決めつけられたくない」
http://hokkeji.blog.so-net.ne.jp/2007-04-12
先日、清宴でとある参列者が
「浄土宗は南無阿弥陀仏と唱える。あの世へ生きたい。救ってくれ。そうすると死にたくなる。鬱病になる。だから法華経を修行しないといけない。しかし、身延の修行は狐や蛇を祀っているので畜生になる。本当に仏界を理解している教団は創価学会」だと。
拙寺地域は浄土信仰が盛んな土地なのだ。
この方は法事の度に折伏と称して周りの方を悩ませるのだが、結構人間味があって拙僧のことも可愛がってくださる。数年来の付き合いになるが宴が進むにつれて拙僧と必ず議論になる。
拙僧
「学会は草創期より相互依存で活動してきた大石寺教義も払拭できず、中途半端。しかも過去の教義清算や活動への自己批判も一際しないで、新教義を布教するのはあまりにも無責任。
ここにいる村の浄土宗信徒は仏教のことなど何も知らない。学んだこともない。興味もない。ただ慣習にならって法事に参列しているだけ。貴方だって入信前はそうだったはず。
しかし、ここの人達が貴方の意見に同調してあなたと同じアナウンスを始めたら、正邪の確証もなく人を引き込むことになる。このことに問題意識や宗教的な懐疑心を抱かないと、世間からカルトと言われても仕方ない。
拙僧は日蓮聖人の教義であっても懐疑心も持つし、教団の高僧の発したことでも疑問を主張できます。そういった教団です。でも新宗教はたいていそのような心を抱くこと自体タブー。成功すれば御利益。失敗すれば信仰が足らないと言う。批判的なことを主張すれば堕地獄となる。これでは思考停止ですよ。
貴方は法事の度に日蓮宗の法要に参列しています。邪教僧侶との同座は地獄行きじゃなかったのですか?貴方は本当の本尊は板ではなく心の中にあると言うが、貴方の大先輩方は大石寺の板本尊のみが絶対と称していました。教義改革は方便として必要というなら、狐や蛇だって肯定できますよね。諸天の別勧請は法華経への引入方便なのですから。
身延が狐や蛇を祀っているというのも貴方達は何十年来主張していますが、釈尊を礼拝しているのです。法華経を信仰しているのです。狐や蛇は諸天の眷属であって、本尊にしていません。そこも間違っています。悪口をそのまま意味も分からず発している人が多すぎます。
わたしは貴方にとても愛着を抱いていますし、毎回お会いするのが楽しみ。万が一貴方が先立つようなことがあったら葬儀には絶対に出席します。たとえ学会の友人葬であっても。友情を教団に指図される覚えはないのですから」
昨年は大震災で多くの命が失われた。熱心な信仰を持つものもあったと思う。この期に及んで布教と称し、そのような無責任なことを発する教団は看過できない。
ある高僧が
「世間では天罰や業・因縁といった言葉を悪しき趣旨で発言する人がいる。しかし、そのような言葉は絶対他者に投げかけるべきではない。自己に自問自答するべき言葉であり問題である」
と説法されたことも伝えた。
最後はその方と再会を誓って握手をして別れた。有意義な清宴であった。
以前ブログに記した内容が埋もれてしまったので再掲します
拙僧ブログ「幸不幸を他者に決めつけられたくない」
http://hokkeji.blog.so-net.ne.jp/2007-04-12
日蓮宗公式ポータルサイト登録!!!
このたび、日蓮宗ポータルサイトに大津市本要寺の新規HPが掲載されました。従来の本要寺HPと併せてご覧ください。![[手(チョキ)]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/87.gif)
また、日蓮宗公式ポータルサイトも情報や動画があふれ、非常に魅力的です。作りも良いです。こちらも是非ご覧ください![[晴れ]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/1.gif)
大津市本要寺(日蓮宗公式ポータルサイト上)
http://temple.nichiren.or.jp/5071024-honyouji/
日蓮宗公式ポータルサイト
http://www.nichiren.or.jp/
また、日蓮宗公式ポータルサイトも情報や動画があふれ、非常に魅力的です。作りも良いです。こちらも是非ご覧ください
大津市本要寺(日蓮宗公式ポータルサイト上)
http://temple.nichiren.or.jp/5071024-honyouji/
日蓮宗公式ポータルサイト
http://www.nichiren.or.jp/
名は大切なものだと思います。
市町村合併で伝統的な地名が消えることにも違和感を覚えた。未だに「どこそれ」といった地名も多い。当時、母の郷里栃木県氏家町や喜連川町も合併して「さくら市」となった。桜が有名だからだそうだ。命名に際し両者譲らなかったこともあるのだろうが、残念だった。
泉佐野市が市名売却の是非が問われている。拙僧は反対だ。伝統や文化をたやすく商品化するのは現代の縮図。松下ですら、あれだけもめて、ようやくパナソニックになった。しかし松下は商業だ。地名は違う。
兼務する京田辺市法華寺には江戸時代開山上人筆の曼荼羅が格護されているが、そこには「山城国綴喜郡大住庄岡村」と今とほとんど変わらない地名が記されている。それを拝する度に、時代を超えて先師と同じ軸を共有する喜びを噛みしめている。
日の丸や君が代も然り。御本尊も然り。時代を経て共有している誇りを大切にしたい。
私は名を大切にしたい。名は体を表す。
「妙法蓮華経と申は文にあらず、義にあらず、一経の心なり」 日蓮聖人『曽谷入道殿御返事』
本要寺住職 中紙賢孝日梵
泉佐野市が市名売却の是非が問われている。拙僧は反対だ。伝統や文化をたやすく商品化するのは現代の縮図。松下ですら、あれだけもめて、ようやくパナソニックになった。しかし松下は商業だ。地名は違う。
兼務する京田辺市法華寺には江戸時代開山上人筆の曼荼羅が格護されているが、そこには「山城国綴喜郡大住庄岡村」と今とほとんど変わらない地名が記されている。それを拝する度に、時代を超えて先師と同じ軸を共有する喜びを噛みしめている。
日の丸や君が代も然り。御本尊も然り。時代を経て共有している誇りを大切にしたい。
私は名を大切にしたい。名は体を表す。
「妙法蓮華経と申は文にあらず、義にあらず、一経の心なり」 日蓮聖人『曽谷入道殿御返事』
本要寺住職 中紙賢孝日梵
時にはお金を使うことも必要
こんばんは
現在深夜一時過ぎ、夜更かしブログです![[目]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/84.gif)
只今お彼岸で皆様からお申し込みいただきました卒塔婆をやーーーーっと書き終えました![[手(チョキ)]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/87.gif)
それはそうと、卒塔婆の語源って知っていますか![[exclamation&question]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/159.gif)
サンスクリット語のストゥーパの音写なんですよ!!ストゥーパ→そとうば 何となく分かりますよね![[決定]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/135.gif)
ストゥーパとは仏塔のことを言います。
お釈迦様が亡くなった後、仏様を恋慕渇仰し、その教えを高顕するために仏塔を建立しました。
仏塔を建立することが「修行」であり「功徳」と捉えるのです。
その後、仏教が伝来した日本でも豪族・貴族・大名などの有力者がこぞって五重塔などの仏塔建立を発願し、功徳を積みました。
ただ、これでは民衆には到底手が出せません。民衆がもっと簡単に功徳を積みたい。
こうして登場したのが木板製の卒塔婆なのです![[ひらめき]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/151.gif)
卒塔婆にはありがたい経文と、亡き精霊の法号を書きます。
日蓮聖人はご遺文の『中興入道御消息』で
「去りぬる幼子の娘御前の十三年に、丈六の卒塔婆をたてて、その面に南無妙法蓮華経の七字を顕しておわしませば、 北風吹けば南海の魚族、その風に当たりて大海の苦をはなれ、東風来たれば西山の鳥鹿、その風に身を触れて畜生道を免れて都卒の内院に生まれん。 況んやかの卒塔婆に隨喜をなし、手を触れ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母もかの卒塔婆の功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母と共に霊山浄土にまいり給わん事、水澄めば月うつり、 鼓を撃てば響きのあるが如しと思召し候え」
と、有り難い文章を残されています。
我々が卒塔婆を建てると、霊界ではとてつもないことが起こるのです。法華経でも「まさに塔を建てて供養すべし」と起塔供養を推奨されています![[exclamation×2]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/160.gif)
また、日蓮聖人は別のご遺文でも「我々の口から発したお経が金色の仏様となってあの世の精霊を尋ねて救ってくれる」とも仰っています。
目に見えないものへの畏敬の念を失い、物質に執着しがちな昨今ですが、自らの身を削って他者のために尽くし、卒塔婆を建てたり、お花や供物を購入し、時間と労力を使って寺詣り墓参りに行き、大切な命の源である先祖へ感謝の誠を捧げることは決して「損」ではありません。必ず自らに功徳が還ってきますよ。![[わーい(嬉しい顔)]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/140.gif)
目先では、交通費、供物代、卒塔婆・お布施ect・・・財布からお金がなくなり、折角の休日をレジャーに行きたいし、これだったらこのお金を自分達のために使った方がよっぽど有効的だし「得」なんじゃないか?と考えることが今時自然なのかもしれません。
仏教の教えや供養の意義などを、皆様に伝えきることができていない仏教界や僧侶は真摯に反省し、いっそう精進してその教えを示していく必要があるでしょう。
最近お寺に納骨をのぞむ相談が多く寄せられます。相談者の事情を聞くと
「親が他界したが費用がかかるし、忙しいので葬儀はしなかった。しかし、遺骨を家に置いておくわけにもいかない。墓地を建てるのも大金がいる。永代供養も費用がかかるので、ただ納骨してほしい」
と言うのです。この方は結局、骨を手放したいが投棄するわけにはいかないので、お寺に預けたというお墨付きがほしいんですね。
拙僧は思わず力が入ってしまい、
「お金お金と言うが、あなた結婚式の時にお金を沢山使ったでしょう。おたくの ”出来の良い”子供が成人するとき、やれ貸衣装?やれ晴れ着購入?記念写真?お金を沢山使ったでしょう。自分へのご褒美といって欲しい物を買ったことはありませんか?今回は育ててくださった親の供養。ここにお金を使えませんか?
どうして大切な親の人生の卒業式にお金をかけられないのですか?どうして葬儀にお金を使うことをいけないことと考えるのですか。当然お金はかかりますよ。費用はかかりますよ。でも重恩の親のために使うのですよ。仏教ではそのような行為を惜しむことを「餓鬼の所業」というのです。
お布施に決まりなど無いのだから、本当にお金がなければ、こちらは一生懸命供養もします。でも、あなたはただケチなだけで、金が惜しいだけ」
と言ってしまいました。こういった話はデリケートなんですよね。僧侶が「お金かかって当然」などと発言すると誤解されかねないのです。拙僧はその方の心の有り様を申し上げたのです。
医者に今晩が峠と言われた母が「一生に一度ダイヤの指輪を指にはめたかった」とうわごとを言えば、夜通し宝石店を探してでも指にはめてやろうと感じるのが人としての情であり報恩だと思うのですが、それですら「もったいない」と一蹴される。
明日無き命に大金は叩けないのだから、死人にはなおさらなのでしょう。不孝ですね。まったく。![[バッド(下向き矢印)]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/156.gif)
![[パンチ]](http://blog.so-net.ne.jp/_images_e/153.gif)
紹介する法話、是非お読みください。分かりやすいです。
法話「四恩の大切さ」
http://www.rinnou.net/cont_04/rengo/2006-02.html
現在深夜一時過ぎ、夜更かしブログです
それはそうと、卒塔婆の語源って知っていますか
サンスクリット語のストゥーパの音写なんですよ!!ストゥーパ→そとうば 何となく分かりますよね
ストゥーパとは仏塔のことを言います。
お釈迦様が亡くなった後、仏様を恋慕渇仰し、その教えを高顕するために仏塔を建立しました。
仏塔を建立することが「修行」であり「功徳」と捉えるのです。
その後、仏教が伝来した日本でも豪族・貴族・大名などの有力者がこぞって五重塔などの仏塔建立を発願し、功徳を積みました。
ただ、これでは民衆には到底手が出せません。民衆がもっと簡単に功徳を積みたい。
こうして登場したのが木板製の卒塔婆なのです
卒塔婆にはありがたい経文と、亡き精霊の法号を書きます。
日蓮聖人はご遺文の『中興入道御消息』で
「去りぬる幼子の娘御前の十三年に、丈六の卒塔婆をたてて、その面に南無妙法蓮華経の七字を顕しておわしませば、 北風吹けば南海の魚族、その風に当たりて大海の苦をはなれ、東風来たれば西山の鳥鹿、その風に身を触れて畜生道を免れて都卒の内院に生まれん。 況んやかの卒塔婆に隨喜をなし、手を触れ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母もかの卒塔婆の功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母と共に霊山浄土にまいり給わん事、水澄めば月うつり、 鼓を撃てば響きのあるが如しと思召し候え」
と、有り難い文章を残されています。
我々が卒塔婆を建てると、霊界ではとてつもないことが起こるのです。法華経でも「まさに塔を建てて供養すべし」と起塔供養を推奨されています
また、日蓮聖人は別のご遺文でも「我々の口から発したお経が金色の仏様となってあの世の精霊を尋ねて救ってくれる」とも仰っています。
目に見えないものへの畏敬の念を失い、物質に執着しがちな昨今ですが、自らの身を削って他者のために尽くし、卒塔婆を建てたり、お花や供物を購入し、時間と労力を使って寺詣り墓参りに行き、大切な命の源である先祖へ感謝の誠を捧げることは決して「損」ではありません。必ず自らに功徳が還ってきますよ。
目先では、交通費、供物代、卒塔婆・お布施ect・・・財布からお金がなくなり、折角の休日をレジャーに行きたいし、これだったらこのお金を自分達のために使った方がよっぽど有効的だし「得」なんじゃないか?と考えることが今時自然なのかもしれません。
仏教の教えや供養の意義などを、皆様に伝えきることができていない仏教界や僧侶は真摯に反省し、いっそう精進してその教えを示していく必要があるでしょう。
最近お寺に納骨をのぞむ相談が多く寄せられます。相談者の事情を聞くと
「親が他界したが費用がかかるし、忙しいので葬儀はしなかった。しかし、遺骨を家に置いておくわけにもいかない。墓地を建てるのも大金がいる。永代供養も費用がかかるので、ただ納骨してほしい」
と言うのです。この方は結局、骨を手放したいが投棄するわけにはいかないので、お寺に預けたというお墨付きがほしいんですね。
拙僧は思わず力が入ってしまい、
「お金お金と言うが、あなた結婚式の時にお金を沢山使ったでしょう。おたくの ”出来の良い”子供が成人するとき、やれ貸衣装?やれ晴れ着購入?記念写真?お金を沢山使ったでしょう。自分へのご褒美といって欲しい物を買ったことはありませんか?今回は育ててくださった親の供養。ここにお金を使えませんか?
どうして大切な親の人生の卒業式にお金をかけられないのですか?どうして葬儀にお金を使うことをいけないことと考えるのですか。当然お金はかかりますよ。費用はかかりますよ。でも重恩の親のために使うのですよ。仏教ではそのような行為を惜しむことを「餓鬼の所業」というのです。
お布施に決まりなど無いのだから、本当にお金がなければ、こちらは一生懸命供養もします。でも、あなたはただケチなだけで、金が惜しいだけ」
と言ってしまいました。こういった話はデリケートなんですよね。僧侶が「お金かかって当然」などと発言すると誤解されかねないのです。拙僧はその方の心の有り様を申し上げたのです。
医者に今晩が峠と言われた母が「一生に一度ダイヤの指輪を指にはめたかった」とうわごとを言えば、夜通し宝石店を探してでも指にはめてやろうと感じるのが人としての情であり報恩だと思うのですが、それですら「もったいない」と一蹴される。
明日無き命に大金は叩けないのだから、死人にはなおさらなのでしょう。不孝ですね。まったく。
紹介する法話、是非お読みください。分かりやすいです。
法話「四恩の大切さ」
http://www.rinnou.net/cont_04/rengo/2006-02.html
列車中での想い出
ダイヤ改正の度に、懐かしい列車が姿を消していく。今日も「寝台特急日本海」がラストランを迎えた。報道を見ていると、懐かしくもあり、一時代が終わっていく一抹の悲壮感がある。
最終列車にホームから「ありがとう」と声がかかる。中には感傷的と捉える人もあるだろう。しかし、その対象が「モノ」であったとしても、感謝を抱く心は実に美しい。
拙僧も約20年前に免許を取得し、給料をはたいて(当時浅草でサラリーマンをしていた)初めて購入した愛車「カローラⅡ」を手放すときの、あの寂しさは今でも忘れることがない。青春の想い出が全て詰まったような車だった。感謝を込めてワックスを塗って送り出した。今でもたまに同車種を見かけると、ふと自分が乗っていた車を思い出してしまう。
仏教には「草木国土悉皆成仏」という考え方がある。チベット仏教ではそのような捉え方はしないようだが、ダライラマ法王は日本仏教のその思想に深く感銘を受けて、シフトチェンジしたと聞いた。さすが法王は固執していない。時代に敏感である。
モノであっても自然であっても成仏するといった思想はいっけん非現実的のようだが、これからの時代に必要な考え方だと思う。現代日本は自分自身が生きるのに必死なあまり、自分本意の生き方に徹し、人の気持ちや、他者からの恩・善意、目に見えない神仏や先祖を意識しない傾向にある。他力本願なのに自己主張はしっかりする。してほしい(得)のに、し返さない(損)。
あらゆる価値観が尊重される良い時代?なので、屁理屈も多い。自分が身を削って他者に喜びを与えることを「無意味・損する」と思う人が増えてしまった。モノも心も消費されるだけ。
話がそれた。学生時代に「ムーンライトながら」という夜行に乗車した。定刻通り東京駅を出発。まぎゃくの席に座った老人はビールとちくわを用意した。夜行旅情を楽しむには欠かせないアイテムだ。品川を過ぎ、川崎に差し掛かろうとしている。その老人はまだ、ちくわの真空パックを開けられずにいる。横浜に着いた。結局開けるのを諦めてしまった。
私はその老人に話しかけてちくわをスッと開けてあげた。老人は嬉しかったのか、自分の用意した酒やつまみを私にすすめてくれる。結局私の用意した酒やつまみも混ぜて楽しい夜行車中談義が始まった。いつしか話は戦争の話へ。先人の大変貴重な話だった。気がつくと一睡もせず名古屋。私も老人もあくびをしながら別れた。懐かしい想い出である。日本海の報道を見て思い出した。
最終列車にホームから「ありがとう」と声がかかる。中には感傷的と捉える人もあるだろう。しかし、その対象が「モノ」であったとしても、感謝を抱く心は実に美しい。
拙僧も約20年前に免許を取得し、給料をはたいて(当時浅草でサラリーマンをしていた)初めて購入した愛車「カローラⅡ」を手放すときの、あの寂しさは今でも忘れることがない。青春の想い出が全て詰まったような車だった。感謝を込めてワックスを塗って送り出した。今でもたまに同車種を見かけると、ふと自分が乗っていた車を思い出してしまう。
仏教には「草木国土悉皆成仏」という考え方がある。チベット仏教ではそのような捉え方はしないようだが、ダライラマ法王は日本仏教のその思想に深く感銘を受けて、シフトチェンジしたと聞いた。さすが法王は固執していない。時代に敏感である。
モノであっても自然であっても成仏するといった思想はいっけん非現実的のようだが、これからの時代に必要な考え方だと思う。現代日本は自分自身が生きるのに必死なあまり、自分本意の生き方に徹し、人の気持ちや、他者からの恩・善意、目に見えない神仏や先祖を意識しない傾向にある。他力本願なのに自己主張はしっかりする。してほしい(得)のに、し返さない(損)。
あらゆる価値観が尊重される良い時代?なので、屁理屈も多い。自分が身を削って他者に喜びを与えることを「無意味・損する」と思う人が増えてしまった。モノも心も消費されるだけ。
話がそれた。学生時代に「ムーンライトながら」という夜行に乗車した。定刻通り東京駅を出発。まぎゃくの席に座った老人はビールとちくわを用意した。夜行旅情を楽しむには欠かせないアイテムだ。品川を過ぎ、川崎に差し掛かろうとしている。その老人はまだ、ちくわの真空パックを開けられずにいる。横浜に着いた。結局開けるのを諦めてしまった。
私はその老人に話しかけてちくわをスッと開けてあげた。老人は嬉しかったのか、自分の用意した酒やつまみを私にすすめてくれる。結局私の用意した酒やつまみも混ぜて楽しい夜行車中談義が始まった。いつしか話は戦争の話へ。先人の大変貴重な話だった。気がつくと一睡もせず名古屋。私も老人もあくびをしながら別れた。懐かしい想い出である。日本海の報道を見て思い出した。
開かれたお寺づくりと、正しい情報の定期的な発信を!
先日京都府綾部町在住の面識のない男性から電話をいただきました。
「人生の壁にぶつかり、仲間を突然失い、生きる意味を模索してきた。上座部仏教やヨガや座禅などあらゆる宗教を試したが、自らの心の隙間を埋めるまでには至らなかった」
「あるとき、偶然書店で日蓮聖人の本を読んだ時、その生き方に強く共感し、涙が溢れて止まらなかった。世法ではなく信仰を貫き、いかなる困難をも他者に原因を求めることなく、真摯に人生を歩まれた姿に勇気をもらい、日蓮聖人や信念の拠り所になった法華経を勉強してみたいと思った」
「具体的には日蓮聖人が佐渡に流罪されたとき、鎌倉の弟子が赦免運動を展開しようとした。これを御祖師様は、迫害は経説の通りで自らは寸分の曇りもないと運動を拒否された。また、赦免後、幕府が大幅に譲歩し、宗門公認や広大な一等地を寄進するという、飛びつきたくなるような条件も拒否、幕府の思惑、つまり、信仰本意ではなく、表面的な宗教利用を見抜かれての行動だったなど」
「世の荒波に振り回されている自分にとって明確な道しるべになった」
御祖師様が仮に世法を優先していたら、今の日蓮宗は味付けの薄い料理のようになっていたのでしょう。
ここで彼が言っていたのは、家の近くにも多くのお寺があり、日蓮宗もある。しかし、ハッキリ言って近寄りがたく戸惑っていたところ、拙寺のブログに出会ったそうです。
拙寺ブログは、真面目なことの他に、檀家さんとの出来事や想い出、、夕食後に住職を尋ねて一緒にラーメンを食べに行ったとか、宗教とは関係がない、くだけたこともアップしてあり、少し恥ずかしくなるような気もしていましたが、これがきっかけで少々遠いが、意を決して連絡してみようと思いったそうです。それでもかなり緊張したとのこと。
物腰の穏やかな彼ですが、内に秘めた情熱に深く心をうたれました。そして、ネットには多くの情報が氾濫しています。中には日蓮の名を冠したカルトまがいの新宗教や団体も多く存在します。
書店にも、あらゆる団体が発行出版した本が陳列されていて、慎重に選択しないと、誤った情報を受け入れかねません。
その中で、よく拙寺にご連絡いただけたことは仏縁だと思います。彼を失望させることのないよう、精一杯精進したいと思います。
この仏縁を無にすることなく、失望させることなく努めて参ります。そして、今後も正確な情報を発信していきたく存じます。 合掌
「人生の壁にぶつかり、仲間を突然失い、生きる意味を模索してきた。上座部仏教やヨガや座禅などあらゆる宗教を試したが、自らの心の隙間を埋めるまでには至らなかった」
「あるとき、偶然書店で日蓮聖人の本を読んだ時、その生き方に強く共感し、涙が溢れて止まらなかった。世法ではなく信仰を貫き、いかなる困難をも他者に原因を求めることなく、真摯に人生を歩まれた姿に勇気をもらい、日蓮聖人や信念の拠り所になった法華経を勉強してみたいと思った」
「具体的には日蓮聖人が佐渡に流罪されたとき、鎌倉の弟子が赦免運動を展開しようとした。これを御祖師様は、迫害は経説の通りで自らは寸分の曇りもないと運動を拒否された。また、赦免後、幕府が大幅に譲歩し、宗門公認や広大な一等地を寄進するという、飛びつきたくなるような条件も拒否、幕府の思惑、つまり、信仰本意ではなく、表面的な宗教利用を見抜かれての行動だったなど」
「世の荒波に振り回されている自分にとって明確な道しるべになった」
御祖師様が仮に世法を優先していたら、今の日蓮宗は味付けの薄い料理のようになっていたのでしょう。
ここで彼が言っていたのは、家の近くにも多くのお寺があり、日蓮宗もある。しかし、ハッキリ言って近寄りがたく戸惑っていたところ、拙寺のブログに出会ったそうです。
拙寺ブログは、真面目なことの他に、檀家さんとの出来事や想い出、、夕食後に住職を尋ねて一緒にラーメンを食べに行ったとか、宗教とは関係がない、くだけたこともアップしてあり、少し恥ずかしくなるような気もしていましたが、これがきっかけで少々遠いが、意を決して連絡してみようと思いったそうです。それでもかなり緊張したとのこと。
物腰の穏やかな彼ですが、内に秘めた情熱に深く心をうたれました。そして、ネットには多くの情報が氾濫しています。中には日蓮の名を冠したカルトまがいの新宗教や団体も多く存在します。
書店にも、あらゆる団体が発行出版した本が陳列されていて、慎重に選択しないと、誤った情報を受け入れかねません。
その中で、よく拙寺にご連絡いただけたことは仏縁だと思います。彼を失望させることのないよう、精一杯精進したいと思います。
この仏縁を無にすることなく、失望させることなく努めて参ります。そして、今後も正確な情報を発信していきたく存じます。 合掌
3月11日が近づいてきました
フェイスブック上で、3月11日に開催される京都マラソンに反対する日記を発見しました。
以前著名人が震災後翌月のディズニーランド再開時に一万人が行列し、子供がはしゃぎ、へらへらする親の映像にふれ
「未曾有の大災害が眼前に広がっているにもかかわらずが、いまだ同じ論理で生きる国民に警鐘を鳴らし、本当の復興をしようと思えば「価値観」そのものを変化させる必要がある」
と発言したことを思い出しました。花見自粛の問題もありましたが、慮る行為が大切と思い、当山では檀家さんと慰霊法要後、地味に行いました。
京都は送り火問題もありました。種々意見はありますでしょうが、拙僧もこの日付選考には感心していません。まだ一周忌ですので、少なくとも当日の午後はしめやかに過ごしたいものです。
以前著名人が震災後翌月のディズニーランド再開時に一万人が行列し、子供がはしゃぎ、へらへらする親の映像にふれ
「未曾有の大災害が眼前に広がっているにもかかわらずが、いまだ同じ論理で生きる国民に警鐘を鳴らし、本当の復興をしようと思えば「価値観」そのものを変化させる必要がある」
と発言したことを思い出しました。花見自粛の問題もありましたが、慮る行為が大切と思い、当山では檀家さんと慰霊法要後、地味に行いました。
京都は送り火問題もありました。種々意見はありますでしょうが、拙僧もこの日付選考には感心していません。まだ一周忌ですので、少なくとも当日の午後はしめやかに過ごしたいものです。
信仰のあり方
こんにちは
年末年始と多忙を極め、なかなかブログを更新できません。お許しください。
フェイスブックは「中紙賢孝日梵」で検索できると思います。利用なさっている方は是非友人になりましょう。
数年前に伏見在住のMさんから電話があった。
「法華経を修行したいので定期的にお寺に伺いたい。お題目を唱えて先祖供養もしたい。御本尊もお祀りしたいとも考えている。ただ、現在生活が苦しくて、職も流動的なため、その時に応じた布施供養しかできないが構わないですか?」
勿論二つ返事で来寺を促した。
その男性は毎月お寺に参拝する。体調の悪いときや仕事の融通がきかないときも、何とか参る努力をし、無理な場合は電話をくださる。財政的に厳しいにも関わらず、ひとつき空いた翌月は空いた分を足して若干お布施が増えている時もある。
息子の安穏を願って献灯料を供えることも。
今日もその方が参拝した。
「いつも丁寧に供養していただいて申し訳ないので自我偈とお題目だけ唱えてくだされば結構です」と仰る。
財政的なことで遠慮しておられるのだと感じたが、いつも通り法要をさせていただいた。
帰りがけに「気持ちがスッとしました。また一ヶ月頑張ります」と嬉しそうに帰って行った。
最近は新興宗教が流行る。自分の目的や夢を達成させるために、その手段として一生懸命信仰するが、先祖を敬ったり、他者の幸福を願ったりと、空気のように目立たないが、息をするように大切なことがおろそかになる。
現代人は自分のしたいこと・興味のあることを一生懸命して満足する。しかし、本来なすべき事を無視していることも多く、それでは本質を見いだせない。スタンプラリーと同じだ。
Mさんのような平凡な日常行動に本物の信仰心を見出すとき、法悦に浸る。
最後に先日参拝した靖国神社の絵馬に
「娘にとって最善の道を歩むことができますようお導きください 母」とあった。 合掌 住職日梵
年末年始と多忙を極め、なかなかブログを更新できません。お許しください。
フェイスブックは「中紙賢孝日梵」で検索できると思います。利用なさっている方は是非友人になりましょう。
数年前に伏見在住のMさんから電話があった。
「法華経を修行したいので定期的にお寺に伺いたい。お題目を唱えて先祖供養もしたい。御本尊もお祀りしたいとも考えている。ただ、現在生活が苦しくて、職も流動的なため、その時に応じた布施供養しかできないが構わないですか?」
勿論二つ返事で来寺を促した。
その男性は毎月お寺に参拝する。体調の悪いときや仕事の融通がきかないときも、何とか参る努力をし、無理な場合は電話をくださる。財政的に厳しいにも関わらず、ひとつき空いた翌月は空いた分を足して若干お布施が増えている時もある。
息子の安穏を願って献灯料を供えることも。
今日もその方が参拝した。
「いつも丁寧に供養していただいて申し訳ないので自我偈とお題目だけ唱えてくだされば結構です」と仰る。
財政的なことで遠慮しておられるのだと感じたが、いつも通り法要をさせていただいた。
帰りがけに「気持ちがスッとしました。また一ヶ月頑張ります」と嬉しそうに帰って行った。
最近は新興宗教が流行る。自分の目的や夢を達成させるために、その手段として一生懸命信仰するが、先祖を敬ったり、他者の幸福を願ったりと、空気のように目立たないが、息をするように大切なことがおろそかになる。
現代人は自分のしたいこと・興味のあることを一生懸命して満足する。しかし、本来なすべき事を無視していることも多く、それでは本質を見いだせない。スタンプラリーと同じだ。
Mさんのような平凡な日常行動に本物の信仰心を見出すとき、法悦に浸る。
最後に先日参拝した靖国神社の絵馬に
「娘にとって最善の道を歩むことができますようお導きください 母」とあった。 合掌 住職日梵
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