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昭和天皇陵「武蔵野御陵」参拝

 親友と東京八王子市にある武蔵野御陵に参拝しました。一度訪ねてみたいと思っていた場所でしたが、機会がなくおりましたところ、親友からのお誘いもあり念願叶った次第であります。
 当日は前日の降雨が緑をつややかに際だたせ、心地よい寒さに張り詰めるような静寂、申し分ない参拝となったのです。
 幼き頃父と一緒に行った皇居一般参賀。どよめく歓声の中、昭和天皇がお出ましになり現在と過去が常住している存在感に圧倒されました。
 そして、今回の参拝も同様の感覚を覚えました。御陵は皇居内にも似、伊勢の神宮にも似、ただただ国土への報恩と感謝を願ったのです。私の出身都立板橋高校は当時日教組の影響力が多大で、その一部教員掃きだめのような学校でした。国旗国歌は当然なし、教員は授業休んで組合活動に奔走、授業は公平性を欠く内容。半強制的に保護者へも思想プリント配布。皇族への罵詈雑言などは品位の欠片もありませんでした。
 拙僧は、私自身を育んでくれたこの国と、踏みしめている大地に感謝をすることは親を思い、師を思うも同然と考え、その象徴である国旗国歌にはその深い恩を観じるのですが、教員達は思想の強要と言って強く反発していました。自らの職権を乱用した思想教育を棚に上げて。

 天皇陛下は元首である前に、国の安穏を祈る祭司者であって、国事行為など報道される行事以上に、一年を通じてその宗教的行為に玉体を捧げておいでなのです。そこには「国安かれ、国民豊であれ」と願うのみなのであって、私利の願いはございません。ですから権力ではなく権威なのであって、日本人が古来より大切に思い、礼拝してきたのではないでしょうか。
 建前は除外して、葬式仏教と揶揄される現状でも僧侶はなぜ尊敬されるのでしょうか。拙僧のような若造が尊称で呼ばれ上座に座し、礼拝を受けるのでしょうか。社会にもまれることを拒み、非才故に僧侶を選んだと豪語する世襲僧侶でさえも同様に礼拝を受けるのでしょうか。
 仏教の教義にてらせば種々意見はございますが、日本ではおそらく「朝夕自らの祖先を守り、供養し、檀信徒の安穏を影ながら常に祈念している」と皆様が理解しているからだと思います。チベットや上座部仏教国のそれとは異なると思います。よって、もはや信仰心の欠如した形骸化した仏教にあって未だ僧侶は地位を維持しているのです。
 であるからこそ僧侶は真実・正義を重んじ、偽りなく常に謙虚でなければならないし、誰よりも報恩を理解しなければならないのではないでしょうか。天皇然り国旗国歌の否定など自らの首を絞める所業に映ります。
  
日蓮聖人は四種の恩
【(一)『心地観経』に説く、父母の恩・一切衆生の恩・国王の恩・仏法僧の恩】
をもって、未来の救済、三世にわたる孝養は法華経に極まるとし「必ず四恩をしって知恩報恩をほうずべし」とご教示されました。恩を忘れて修行は成り立たないのです。

フランスでは「子供手当」が成功したと聞きます。西洋では神との契約が未だ有効で、国民は国家を誇りと思い、その国恩に報いる生活を実践しています。

一方日本は、個人の欲求を満たすのみの新宗教、もしくは信仰心の欠如した形骸化仏教がその大半であって、神仏との契約などありません。国民は国家に何の愛情も注ぎません。注いではいけないと教育界では教えてきました。

はたしてこのような国で「子供手当」を支給して成功するのでしょうか。

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